京都の文化財と日本の文化財について、カテゴリごとにご紹介します。

1.仏像編

西方「極楽浄土」を髣髴!
「浄土堂阿弥陀三尊」

スライド式動画で、展開しているのは「浄土寺(兵庫県小野市)浄土堂(国宝)」内の「阿弥陀三尊像(国宝)」です。鎌倉時代の著名な仏師、「快慶」とその弟子たちが手掛けたもので、重源上人から阿弥陀如来と極楽浄土のお話、すなわち「浄土信仰」を教えられた際に、その感激を具体化した表現といっても良いでしょう。

春と秋、それぞれの彼岸の中日(3月22日前後&9月22日前後)の夕暮れ時には、浄土堂の後ろの蔀戸から、夕陽の光が徐々に入り込み、阿弥陀三尊が背後から光を受け、まるで西方極楽浄土から来迎(飛来)したような空間になるのです。

普段は陰翳の中、巨大な阿弥陀三尊(阿弥陀如来&観音菩薩&勢至菩薩)が厳かに立つ、特集な宗教的空間で、どちらかというと厳粛な雰囲気。しかし西陽が入ると一変、堂内は徐々に変貌していきます。

宗教プロデューサー「快慶」が生んだ舞台装置!

円形の須弥壇、台座の下の雲座という彫刻、朱塗りの柱や梁、大きな蔀戸(上下開閉式の扉)など、まさにこの世に出現してみせた「極楽浄土」立体体験!今でいうVR(バーチャル・リアリティ)!

快慶たちは、重源上人をはじめ多くの人から学んだ極楽の様子を、見事に彫刻の分野で表現して見せたのです。

文化財の見方

仏像 種類判別の方法

入門編:先ずは「仏様たち(仏像)」をグループ分け!
★京都の代表的国宝仏像

国宝仏像の数(件数)で多いのは、「東寺」と「広隆寺」です。東寺の講堂には「立体曼陀羅」とも呼ばれるように、「五智如来」・「五菩薩」・「五大明王」・「四天王」・「梵天・帝釈天」と21躯の仏像が秩序だって実に整然と並んでいます。
また広隆寺には、有名な「弥勒菩薩像」がいらっしゃいます。実は、広隆寺にはもう一躯の「弥勒菩薩像」が伝わります。一般的に前者を「宝冠弥勒菩薩像」、後者を「泣き弥勒」と呼んでいます。
また、古さでは「蟹満寺(相楽郡)」の「釈迦如来像」と「観音寺(京田辺市)」の「十一面観音像」が際立っています。前者は金銅製でその製作年代は白鳳時代から天平時代。後者は木心乾漆像で天平時代の製作とされています。いずれも京都に都がおかれる前の時代の仏像ですから、優に1200年を超えて昔、ということになります。
また個性派では「鞍馬寺」の「毘沙門天像」と「浄瑠璃寺」の「四天王像」でしょう。前者は「毘沙門天」を中心に、奥さんである「吉祥天(きっしょうてん)」と息子の「善膩師(ぜんにし)童子(どうじ)」 が両脇に控えます。後者は四天王の内、現在お寺には持国天と「増長天」のお二方 しかいませんが、敢然と仏法を護らんとする迫力は充分伝わってきます。

入門編:仏様のカテゴリー(仏像の分類)

「仏像にはどんな種類(グループ)があるの」?

「仏像」には大きく分けて「如来」・「菩薩」・「明王」・「天」の像があります。他にも「羅漢像」や「祖師像」などありますが、前述の4グループが全体のおおよそを9割位を占めるでしょう。また「仏像」とは狭い意味では「如来」像のみを指しますが、広く解釈をして「菩薩」像も、「明王」像も、諸「天」像も、「仏像」と呼んで、差し支えはありません。なぜなら「仏」とは「仏陀」の略で、「仏陀」イコール「如来」だからです。でも「菩薩」も「明王」も「天」も一般的に広い意味で「仏様」と呼びますので、その像を「仏像」と呼んでも大丈夫です。羅漢や十大弟子或いは高僧など人物の場合は、通常「仏像」とはいわず、「尊像」や「祖師像」という言い方をします。また日本の神々を表現したものは「神像」といいます。中には「僧形(そうぎょう)八幡(はちまん)神像(しんぞう)」という神仏習合の代表的な彫像もあります。「八幡(はちまん)(しん)」という日本の神様は、もともと仏教で登場する「阿弥陀如来」だとする考え方で、この場合 は神像と呼んでも仏像と呼んでも大丈夫ですね。

如来像

「真の世界からやってた方」という意味です。「大いなる悟りを開いた方、覚醒した方」という意味で、「仏陀」ともいい、略して「仏」ともいいます。
ですから仏像とは「仏陀」の像ですから、狭い意味ではこの「如来」像だけを指すのです。出家後のお釈迦さんを、イメージして彫られているため、余計なものを取り去った、極めてシンプルな身なりをしています。また如来になったら現れるという体の特徴、三十二相・八十種好もいくつか表現されています。 例えば、頂髻相(髻を結いあげたように頭の肉が二段になっている)や螺髪(髪の毛がちじれている)などがあります。また如来像の場合、比較的、坐像(座っている御姿)が多いのは仏国浄土で法を説いていらっしゃる時の様子を表しているからです。
「如来像」の例としては、「釈迦如来像」・「阿弥陀如来像」・「薬師如来像」・「大日 如来像」など多数あります。

菩薩像

「菩薩」とは大いなる悟りを開こうと努力をしている方、つまり「如来」になることを目指して仏道修行をされている方、またその一方で助けを求めているものに、救いの手を差し伸べてくれる有難い存在です。出家前のお釈迦さん(出家を決心する前は、釈迦族の皇太子でした。)を、イメージしているので、王族階級のエレガントな身なりをしていることが菩薩像の大きな特徴です。髪の毛を結いあげたり、宝冠をかぶったり、ショールを羽織ったり、アクセサリーで胸や腕を飾ることもあります。また比較的、立像(立っている姿の像)が多いのは、救いの必要な者のところに歩み寄ってきてくれる、その様子を表現しているからなのです。菩薩像の例としては、「観音菩薩像」・「地蔵菩薩像」・「弥勒菩薩像」・「虚空蔵菩薩像」・「普賢菩薩像」・「文殊菩薩 像」など数多くいらっしゃいます。

明王像

「明王」とは難しい言葉でいいますと「如来」の「教令(きょうりょう)(りん)(しん)」。簡単にいいますと「如来」の「化身」です。こちらをギロッと睨んでいる「忿怒相(ふんぬそう)」という威圧感たっぷりの面構えが「明王」の一番の特徴でしょう。「如来」は言葉で悩める者を導いてくれます。「菩薩」はその行動力で悩める者を導いてくれます。そんな如来や菩薩のような優しい態度で臨んでも、必ず仏法の邪魔をする「やんちゃ」な輩がいるものです。そんな一筋縄でいかない者達に相対してくれるのが「明王」なのです。だから、厳しい表情をしたり、剣を持ったり、獲物を捉えるための仕掛けを持ったりしているのです。「罪を憎んで人を憎まず。」という言葉の通り、人の道に外れた者自身を睨んであるのではなく、そうさせている煩悩や誤った考え方を断ち切ろうと、怖い顔をして武器を持っているのです。明王像の例としては「不動明王像」・「愛染明王像」・「大威徳明王像」・「孔雀明王像」などいらっしゃいます。

天像

「天」とは実は「神」のことです。「デーヴァ」という「神」を指すサンスクリット語が「天」と漢訳されました。古代インドや西アジア、東南アジアなどの土着の神々が仏教に取り入れられて「天」となりました。天の多くは仏や仏の説く仏法を守護するという役目を負っています。大きく分けて「官僚派」と「武闘派」に区別できますが、姿はそれぞれに個性的で、ひと口にこれという特徴がありません。しかし分類はできます。簡単に分けますと「背広組」と「制服組」ですね。「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」といえるでしょうか。両極端ですからバラエティに富んでいる筈です。他の仏像と違うのは男女の区別があること。神様ですから性別があるのです。官僚派の天像としては「帝釈天像」・「梵天像」、武闘派としたは「毘沙門天像」・「十二神将像」・「四天王像」・「仁王像」など。また女性の天としては「吉祥天像」・「弁 才天像」・「伎芸天像」・「鬼母神像」などいらっしゃいます。

十大弟子像と羅漢像

「十大弟子」とはお釈迦様の数多いる弟子達の中で特に著名な十人の弟子のことで、お釈迦様の時代にインドにいらっしゃったとされる方々です。中にはお釈迦様の息子や従兄弟もいますよ。また出身も様々で長者の息子もいれば、元散髪屋さんもいます。またそれぞれ特殊能力をもっておられたとされ、神通力をもっていという「目犍連(もっけんれん)」。説法を得意とし60の言語を使い分けたという「富楼那(ふるな)」などバラエティに富んでいます。また「阿難(あなん)」はお釈迦様の従兄ともいわれ、常にお釈迦様と行動を共にし、一番多くお釈迦様の説法を聞いたということで「多聞第一」とされます。また「羅漢」とは「尊敬に値する方」という意味で、修業を重ねて特殊な能力を身につけた方が多いようです。十六羅漢や十八羅漢、また五百羅漢など選抜方法も様々です。日本人に一番馴染みがあるのは「賓頭盧(びんずる)」尊者。通称「おびんずるさん」といい、「撫で仏」で知られています。寺院のお堂の廊下や食堂に祀られていることが多く、信者は自分の身体の悪いところと同じところを「おびんずるさん」の体を借りて撫でると御利益があるといわれています。

祖師像&尊像

宗派の祖師パイオニアや高僧などの像を指しますが、在家にあって日本仏教の発展に大いに尽力された方といえば「聖徳太子」です。彼の像も祖師像といってよいでしょう。政治家としても宗教家としても高く評価されている聖徳太子の像はおおよそ3パターンあります。2歳の時の「南無仏太子像」という可愛らしい幼児像。12歳の時の「太子孝養像」は柄香炉を持つ純心な少年像。42歳の時の「勝曼経講讃像」は厳しい表情をした壮年時代の像です。
また「聖徳太子」像と同じくよく見かけるのは「弘法大師(空海)」像ですね。京都のみならず全国各地に残る弘法大師伝説は、仏教のみならず、土木技術や語学や医術なども極めていたという空海の超実践的な生き方が反映されているのです。まさに平安仏教界のスーパーマン的存在。弘法大師像は42歳頃の「厄除け大師像」が比較的よく見かけられます。右手に「五鈷(ごこ)(しょ)」という密教法具を持ち、胸の前にしているポーズが一般的です。

★京都の代表的仏像

国宝仏像の数(件数)で多いのは、「東寺」と「広隆寺」です。東寺の講堂には「立体曼陀羅」とも呼ばれるように、「五智如来」・「五菩薩」・「五大明王」・「四天王」・「梵天・帝釈天」と21躯の仏像が秩序だって実に整然と並んでいます。

また広隆寺には、有名な「弥勒菩薩像」がいらっしゃいます。実は、広隆寺にはもう一躯の「弥勒菩薩像」が伝わります。一般的に前者を「宝冠弥勒菩薩像」、後者を「泣き弥勒」と呼んでいます。また、古さでは「蟹満寺(相楽郡)」の「釈迦如来像」と「観音寺(京田辺市)」の「十一面観音像」が際立っています。前者は金銅製でその製作年代は白鳳時代から天平時代。後者は木心乾漆像で天平時代の製作とされています。いずれも京都に都がおかれる前の時代の仏像ですから、優に1200年を超えて昔、ということになります。

また個性派では「鞍馬寺」の「毘沙門天像」と「浄瑠璃寺」の「四天王像」でしょう。前者は「毘沙門天」を中心に、奥さんである「吉祥天(きっしょうてん)」と息子の「善膩師(ぜんにし)童子(どうじ)」が両脇に控えます。後者は四天王の内、現在お寺には持国天と「増長天」のお二方 しかいませんが、敢然と仏法を護らんとする迫力は充分伝わってきます。

観音寺(京田辺市)
金剛院
浄瑠璃寺
神童寺
積善院準提堂
聖護院
大報恩寺(千本釈迦堂)

2.寺院建築編

「最初の第一歩(入門)」編

山門(さんもん)三門(さんもん)「山門と三門の違いは?」

現地講座で大きな伽藍の禅寺を案内中に、よく「山門と三門の違いは?」という質問を受けます。
「山門」というのはお寺にある門すべてを指します。お寺のことをお山といいますからね。もともとお寺は、世間から離れて、山に建てられることが多かったからでしょう。そして「三門」というのは本山級の禅宗寺院に見られる独特の巨大な門のことで、「三」は「空」・「無相」・「無作」という悟りに至る三つの境地のことを指します。
つまり「三解脱門」の略が「三門」ということになります。この三門を潜って、本山に入山するからには、解脱の境地を得るまで、出れると思うな!という一種の関門を暗示しているようです。ですので、昔は三門を潜れるのは僧侶か一部の人しか、出来なかったはずです。現在は、一般の参拝客や拝観客が潜れる三門も有りますね。
また三門の構造ですが、形式上は「二重門(重層門)」といいます。ですから二階建てです。一階と二階の間 に屋根が無ければ「楼門」と呼びます。「楼」というのは二階建て以上の高層建築を指す漢字です。

そして三門の二階の内部ですが、これが実に別世界のように素晴しい。外から見ているだけでは想像の

つかない空間です。仏像や羅漢像などが安置され、天井や柱や壁には仏国浄土の様子が描かれているのです! 
龍が本尊を守護し、天女が宙を舞い、上半身が人間で下半身が鳥という「迦陵頻伽(かりょうびんが)」という生き物も描かれています。麒麟マカラなど想像上の動物も数多く描かれています。」でも昇っていくのがひと苦労。 階段はかなり急ですので、昇り降りには十分ご注意を。

❷ 門の種類

「門」はその用途や形式によって様々に分類できるのですが、ここでは、よく耳にする門の名称を取り上げてみましょう。例えば勅使門(ちょくしもん)。これは門の用途(使い方)面での呼び名です。勅使(ちょくし)つまり天皇のメッセンジャーが通る時にだけ開くという特殊な門で、全ての寺院に常備されているわけでなく、門跡寺院や天皇家とゆかりの深い寺院に限られます。昔は天皇が御所から外に出ることはめったに無かったので、この勅使は天皇の代理として、天皇と同等に扱われ、そして迎えられたのです。
それから唐門(からもん)という名称もよく聞きます。これは形式上の分類の一つで屋根の一部が(から)破風(はふ)となっている門です。「唐破風」というのは日本で生まれたデザインで、客人を迎え入れる場所にこの「唐破風」がよく見られます。また二条城二の丸御殿の「車寄」などは立派な唐破風です。身近なところでは、大きな構えの料亭や、歴史のある銭湯にもこの唐破風が見られることがよくあります。いずれも客人を 手厚く迎えようとするホスピタリティ精神の表れといえるでしょう。

浴室(よくしつ)東司(とうす)

大きなお寺では、昔から七堂(しちどう)伽藍(がらん)と呼ばれるように、主要な建物だけでも7棟あって、それぞれの建物は、それぞれの目的によって造られています。そこにはメインの建物以外にも、僧侶達が日常の生活するためのご飯をつくるための建物、トイレ、お風呂なども含まれます。お風呂はお寺でもやはり浴室(よくしつ)と呼びます。もっともお寺の浴室は、蒸気を狭い空間に送りこんで、その中で蒸気に身体を曝して、垢を浮かして、きれいさっぱりするという、今でいう「サウナ」ですね。
また禅寺ではトイレを東司(とうす)」・「西浄(せいじょう)と呼んでいました。大きなお寺では一ヶ所で足りないから東と西に有ったのです。でも「浴室」と違って、現在まで残っているものが少ないですね。紅葉で有名な「東福寺(京都市東山区)」と一休さんが晩年住んでいた「酬恩庵(京田辺市)」くらいでしょうか。「東福寺」の東司は室町時代の建物で、今でも便器が埋め込まれていた穴が無数に残っていて、日中なら外の窓から覗くことができますよ。

仏殿(ぶつでん)法堂(はっとう)

仏殿(ぶつでん)」と「法堂(はっとう)」。前者は読んで字の如く「仏のための殿舎」ですから、御本尊を安置するためのお堂です。後者もやはりその名の通り、講議をする、つまり法を説くためのお堂なのです。英語でいえば「レクチャー・ホール」ですね。また、「法堂」では法要を修する時に使用する場合もあります。
双方とも禅宗寺院特有の呼び名で、他の宗派では前者を「金堂」と後者は「講堂」と呼ばれます。
「金堂」もやはり「金」という文字が仏様を表しているのです。如来になると身体が金色に輝くとされていることから、とは如来(仏)のこと「金人(きんじん)」とも呼んだぞうです。
禅宗の各本山も度重なる戦乱や火災で、お堂が失われていることが多く、今では「仏殿」と「法堂」が別々に守られている方が、珍しくなりました。再建時には経済的な事情もあったのでしょう。どちらか一方を再建して、 仏殿兼法堂としているところが多いですね。

方丈(ほうじょう)庫裏(くり)

「方丈」はもとも一丈四方の建物という意味で、昔インドで在家ながら仏教を深く信じていたという、維摩居士の住んでいた家がモデルとも伝わっています。その後は正方形ではなく、長方形の5-6室を持つ質素な建物として発展し、それぞれの部屋の役割が決まっていました。
例えば、仏像や位牌を安置する「仏間」とその前には勤行をするための室中(しっちゅう)。また玄関に一番近い部屋は応接室である(らい)の間」。その「礼の間」から「室中」を挟んで、隣にある部屋が「檀那(だんな)の間」こちらは、お寺の檀那つまりスポンサーをお通しする特別応接室、つまりVIPルームなのです。
また「檀那の間」の奥の部屋は「衣鉢(いはつ)の間」。師から弟子へと、法統を継ぐ(免許を渡す)ための儀式が行われたことに由来します。残った最後の部屋は「書院」。ここは住職のささやかな書斎兼執務室。
ひとつの建物を南北に、そして東西中と区切り、実に合理的に部屋の役割分担がなされていると思いませんか。また「庫裏」とはお寺のダイニングキッチンであり、住空間でしたが、現在は事務所として使用されているケースもあります。

❻ 塔

「塔」とは卒塔婆(そとば)」の略です。「卒塔婆(そとば)」とはサンスクリット語の「ストゥーパ」を漢字に訳した単語であり、その意味は「仏舎利塔(仏の舎利を祀るところ)」です。「仏舎利」とは「お釈迦様の遺骨」のことで、「塔」とはお釈迦様の「墓標」ということになります。お釈迦様が亡くなった頃のインドでは、まだ仏像という礼拝対象が無かったので、お釈迦さんの足跡を型取ったもの(仏足石)「仏舎利」をお釈迦様と慕って、信仰の対象としていたのです。 日本でも仏教が伝わった初期の頃には、この塔を寺院の伽藍の中心に据える配置でしたが、やはり、より具体的な仏像の方が有りがた味があると考えられたのでしょうか?次第に中心には金堂が置かれるようになり、塔は次第に境内の隅に追いやられるようになりました。 これは伽藍配置の歴史を見ますとよく解ります。

塔頭(たっちゅう)

「塔」とは「墓標」または「お墓」そのもののことを指します。本来はお釈迦様の墓のみを指しましたが、やがて広くお墓一般を指すようになりました。本山の住持(トップ)やそれに相当する高僧が引退、或いはお亡くなりになりますと、本山の境内地に、小さなお寺を造り、隠居されたり、御墓の中に眠り、それを弟子達が守っていくようになりました。今では塔頭寺院は家族単位で生活している場合が多いようですが、もとは隠居所または墓という役割です。
安土桃山時代以降、有力な戦国武将達がこぞって、この塔頭造営のために寄進(寄付)をするようになりました。高僧と仲がよくなり、有力スポンサーとなることによって、塔頭を造営し、自分達一族の京都での菩提寺として考えたようです。特に大徳寺では黒田家ゆかりの「龍光院」畠山氏ゆかりの「興臨院」細川家ゆかりの「高桐院」毛利家・小早川家ゆかりの「黄梅院」など枚挙に暇がありません。

❽ 京都の代表的国宝建造物(寺院編)

京都府には現在、国宝建造物が50件有り、この数字は全国の都道府県の中でもトップです。
有名なところでは「東寺五重塔」、「蓮華王院本堂(三十三間堂)」、「清水寺本堂(舞台)」など。
少し変わった国宝建造物では「広隆寺桂宮院(非公開)」。こちらは八角形のお堂で、奈良の法隆寺夢殿とよく似ています。やはりどちらも聖徳太子ゆかりの寺院ですから、共通点として考えてみても面白いですよ。外観で一番大きく夢殿と異なるところは、屋根が檜皮葺である点です。
また「豊国神社 唐門」もその建築彫刻が素晴らしく、特に大きな鶴の彫りものは立体的で、今にも飛び出してきそうです。また「仁和寺 金堂」は、もともと京都御所にあった紫宸殿(天正年間、豊臣秀吉によって造営)を移築したもので、その際、宮殿風の内部は、仏堂風に改めましたが、外観は手を加えず、ほぼそのままの状態で、寝殿造の様子が今でもはっきりと判ります。また外観上では、御所では檜皮葺であったのを、仁和寺移築後には瓦葺に改めました。まさに、江戸時代初期の劇的ビフォー・アフ ターですね。

「少しディープに(応用)」編

(かえる)(また)懸魚(げぎょ)

(かえる)(また)懸魚(げぎょ)。どちらも日本の古建築に欠かせない部材で、寺院だけでなく、神社やその他の建造物に使われていることもあります。中でも(かえる)(また)は日本建築独特のものであり、梁(横の柱)の間に挟まり、屋根から重み(圧力)を下に伝えていく役割を果たしています。カエルの股のように見えることから、その名がついたようです。
また懸魚(げぎょ)はどうやら中国から伝わってきたようで、現在でも雲南省の民家には魚をデザイン化したものを屋根に付けているようです。屋根の妻(端の断面)の部分に、手を合わせた形に見立てますと、ちょうど中指同士がくっついた辺りに、不思議なものが懸けられています。屋根の接合部まど、デリケートな部分から雨水が入ったり、その部分の腐食を防ぐための実用的な意味があるのですが、実はそのデザインのルーツは魚です。 「カエル」も「魚」も水に住む生きものですので、防火の意味が込められているようですね。

❿ 柱の面取り

柱が角材である場合、その角を削っておくことを「面取り」といいます。
寺院建築の場合、柱の面取りの比率が高いほど、時代が古いと言えるのです。 木の幹はもともと丸いものですが、それを一旦、角材とする場合、かなり削らなくてはなりません。そして出来上がった角材を更に削るわけですから、実は贅沢な使い方です。ですから時代が下るに連れ、立派な檜の木もなかなか手に入らなくなったのでしょうね、「面取り」の割合が小さくなってきました。昔からエコに対する考え方が、しっかりと出来ていたようですね。
また、江戸時代になりますと、ちょっと変わった「面取り」も流行しました。「几帳面」です。
「几帳」は平安時代からありました。貴族が使った部屋の仕切りです。源氏物語の絵巻などでも登場します。その「几帳」の軸にヒントを得て、細工をした「面取り」の一種です。よく「性格が几帳面」などといいますが、この緻密な面取りの技法に由来しているとも言われています。

⓫ 建築様式(禅宗様を中心に)

日本の古建築には「和様」、「唐様(禅宗様)」、「天竺様(大仏様)」を基本として、それらがミックスされた「折衷様」と分類されます。教科書でも御馴染みですね。
さて、この中でパッと見て一番わかりやすい様式は「唐様(禅宗様)」でしょう。いくつかの特徴があります。まず礎盤(そばん)「ちまき」。これは柱の下に、念入りに加工した石の基礎(カーリング競技のカーのような形)を置き、柱の下面の周囲をわずかですが、丸く削っています。これを「ちまき」といいます。どちらも柱の腐食を防ぎ、長持ちさせる工夫です。
また窓のフォルムに特徴があります。「花頭窓」といいまして、もともとは蝋燭のゆらめきをデザインした「火灯窓」だったようですが、火は木造の建物にとって良くないとされたためでしょう。
「花(華)頭窓」という字が充てられるようになりました。そういえば花の蕾のようにも見えますね。

⓬ 屋根の形と葺き方の種類

日本の建築史上最も古典的な切妻(きりつま)造」。ちょうど本を45度に開いてかぶせたような形。
また仏教の伝来とともに、そのお堂の屋根として大陸から伝わったとされる寄棟(よせむね)造」。これは妻が無く、瓦で四面が全て敷き詰められている屋根です。その「寄棟造」が正方形の建物の屋根である場合(ほう)(ぎょう)造」と呼びます。ちょうどピラミッドのような形です。
そして「切妻造」「寄棟造」をミックスさせたような入母屋造(いりもやづくり)」。この4つが屋根の造りの基本形といえるでしょう。
また、屋根の上には「瓦葺」の他に植物系の「檜皮(ひわだ)葺」・「板葺」などがあります。
「板葺」は一枚一枚の板の厚さによって、「とち葺」・「(こけら)葺」・「木賊葺」などがありますが、よく見かけるのは(こけら)葺」です。「杮(こけら)」は「柿(かき)」材では無く、椹や檜の薄い板のことです。
よく劇場のお披露目を杮落(こけらおと)し」といいますが、それは屋根に残った板の屑を下に落し、建物をきれいな 状態にしてスタートさせることから生まれた表現なのです。

⓭ 破風

破風(はふ)とは、屋根の切れめの部分で、屋根に付属する部分は「妻」と呼びますが、風があたる枠の部分を「破風」といいます。ですから屋根の形状と連動して「切妻破風」「入母屋破風」もありますが、よく耳にするのは「唐破風」です。その名前から中国から伝わったデザインと思いきや、そうではなく実は国産のデザインなのです。「唐」はもちろん中国を指し、昔は中国製品を客人に見せて、その歓迎ぶりを表しました。一昔前、世のお父さんに客人が来た時、舶来物のウィスキーを出して、歓待したようなものですね。独特の曲線は、ホスピタリティーの表れと私は考えています。またお城の天守閣などでは、「千鳥破風」をよく見かけます。千鳥が飛ぶシルエットのような形で、切妻破風の小型版ともいえるでしょう。
京都で、これら破風の競演ともいえる建造物があります。「西本願寺 飛雲閣」。まさしく飛ぶ雲のように、自由自在にその屋根のフォルム(形)を変えて拝している外観は、破風と屋根の絶妙なハーモニーです。

⓮ 天井

建物の中を見てみましょう。よく話題にされるのが天井ですね。天井を見ればその下に座るべき人の格がわかるといわれます。木が格子状に組まれている格天(ごうてん)(じょう)。その「格天井」の格子の中に更に細かい格子が組み込まれている小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)。またその天井をサイドから支輪を使って少し高くした折上(おりあげ)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)
一番大切な人、公家ですと冠位の上位の方、武家でしたら将軍や大名、寺院ですと門主さん辺りになるでしょうか。そんな方々に座って頂く部屋の上は、折上(おりあげ)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)。そして次が小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)「格天井」という順番になります。もちろん全ての部屋にこれらの天井が揃っているわけではありませんので、その場合、一番手の込んだ天井というのが一つの目安となるでしょう。普段使いの部屋には簡単な竿(さお)(ぶち)天井」。これは長い竿を数本上に並べてあるような簡素な天井です。

⓯ お堂の天井に、竜がよく描かれているその本当の意味とは?

なぜ禅寺の大きな建物の天井にはよく龍が描かれているのですか?」そんな質問をよく受けます。
禅宗寺院の法堂(はっとう)の天井のことですね。現在は仏殿を兼ねている場合もありますので、「仏殿」に描かれているといっても間違いではありません。なぜ「法堂」の天井に龍の絵が描かれているのかといいますと、「龍」という霊獣はお釈迦様と非常に縁のある動物だからです。お釈迦様が生まれた時も天から二匹の龍がお祝いに駆けつけました。またお釈迦様35歳、悟りを開かれた時にも、その上空で雨風からお釈迦様を守ったといわれています。また、龍は仏法を理解することができる数少ない動物ですので、お釈迦様の説く教えを聴きにやってきているのだと解することもできます。つまりお釈迦様や仏教の守護獣であると共に、仏教の聴講生でもあるのです。だからお釈迦様の頭上である天井に描かれているのです。実は「法堂(仏殿)」にはほとんどの場合、お釈迦様が祀られているのです。お釈迦様を中心に、その両脇には「迦葉尊者」と「阿難尊者」いずれも十大弟子(お釈迦様特に優秀な十人の弟子達)のメンバーです。
よく、龍は水の神様だから、火災除けのために描かれているという説明を聞きますが、確かにそういう理由もあるとは思います。でも、それなら別に天井でなくてもいい、法堂や仏殿に限らずとも木造の建物なら、壁面でも柱でも、梁でも、どこに描かれていてもおかしくない。ということになります。龍とお釈迦様の素敵な関係を理解していると、天井に描かれた龍の謎が解けるのです。

3.神社建築 編

「最初の第一歩(入門)」編

❶ 鳥居
そもそも「鳥居」って何?

「鳥居」とは神域と俗界を分けるための結界の出入り口といえるでしょう。つまり、神様の世界と、人間中心の世界を分けるためのものです。もちろん「瑞垣(みずがき)」や「玉垣(たまがき)」という柵や塀がその役割を果たしているのですが、その囲みの中で神や人が行き来できる出入口といえるでしょう。ここから先は、神社の境内であって、神様の領域ですよ、でも出入りは可能ですよ、と知らせるための目印です。
では、なぜ「鳥が居る」と書くのでしょうか?
諸説ありますが、東南アジアや中国南部の一部の村では、村の出入口に日本の鳥居のオブジェのようなものがあり、そこに鶏などの鳥類を括りつけているそうです。外部から人が入ってくると鳥が騒ぎ出して、中にいる人達に知らせてくれるのでしょう。「番犬」ならぬ「番鶏」ですね。現代でいう「センサー」の役目を果たしているとも言えますね。
さて、その形には様々な形状があり、大きく分けて「神明鳥居」「明神鳥居」に分けられます。
一般的に、よく目にするのは「明神鳥居」の方ですね。この明神鳥居からさらに派生して稲荷鳥居・山王鳥居・三輪鳥居・両部鳥居などがあります。
また京都では「三珍鳥居」が良く知られています。
伴氏社(北野天満宮摂社)の柱の台座に「蓮弁の彫り物が有る」鳥居。厳島神社(京都御苑内)の笠(頭部)に「唐破風」がついている鳥居。最後に蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)の三本柱の鳥居。また鳥居の材質は木・ 石の他、銅・鉄・コンクリート、はては陶器製まであるそうです。

❷ 本殿と拝殿
「本殿」と「拝殿」? どう違うの?

「本殿」とは「神様」がいらっしゃるとされる社殿。「拝殿」とは「本殿」を拝するための社殿です。
ですから「本殿」は神のための建物。「拝殿」は人間のための建物と言い換えることもできます。
寺院ではこのように、参拝するところを別の建物で明確に分けたりはしません。仏堂の中で「内陣」が仏の空間、「外陣」が参拝者の空間としているか、或いはお堂は仏だけの空間として。参拝者は、その外側、「向拝」という大きな庇部分からお参りをするかですね。
また、神社によっては「本殿」と拝殿が一体化していて中、外からでは区別がつかないということもあります。本殿の建築スタイルについては「もっと知る」コーナーをご参照いただくとしまして、少し変わった拝殿をご紹介します。「割拝殿」といいまして、建物の真ん中に参道が通っている形式です。この形式の拝殿は京都でも時折見られます。「由岐神社拝殿」・「御香宮神社拝殿」・「許波多神社拝殿」・「藤森神社」などいくつか例が見られます。
また割拝殿のある神社は女神を祀っているという俗説がありますが、これは参道(産道)が通っている、という語呂 から生まれた、昔の「なぞかけ」なのかもしれませんね。

❸ 神饌所
神饌とは?

神饌(しんせん)」とは神様の食事のことであり、その食事の支度をするための社殿が「神饌所(しんせんしょ)」です。
呼び方は神社によって異なることもあります。例えば、下鴨神社では「大炊殿(おおいどの)」と「贄殿(にえどの)」です。
二ヶ所もあるのは米や野菜、果実などを調理するところが「大炊殿(おおいどの)」。「魚鳥類」などの肉系統を調理するところを「贄殿(にえどの)」と分けているのです。
「神饌」が登場するのは神社の行事、神事の時です。神事の最初に神職達のリレーによって、本殿に「神饌」が備えられます。「神饌」は米や酒は勿論のこと、「山の幸」・「海の幸」・「里の幸」など種々のものが用意され、最後は果物がデザートとして給されるというフルコースです。本殿前で最後に神の前に並べるのは、神社によっても異なりますが、主に宮司さんの役目のようです。
また神事の終わり近くには「撤饌」というプログラムがありますが、これは神前に供えた「神饌」をさげる行為をいうのです。そして神様のおさがりを関係者で分けて頂戴することを「直会(なおらい)」といいます。

❹ 絵馬所(殿)と神厩舎
絵馬のルーツは?

「絵馬所」とは文字通り、大きな絵馬が奉納されている建物です。 そもそも「絵馬」とは、もともと神社に本当の馬を奉納する風習が、駒形の木の板をもって代用することになり、白木のままよりは、絵を描いて願掛けをしようとしたものだとされています。現在では神社に用意された小さな絵馬に願い事を書いて奉納するのが習わしになっていますね。
昔は大きな祭礼のときには朝廷から神社に対して、本当の馬を献上していたことも実際あったようで、貴船神社では雨止み祈願の時は「白い馬」を、雨乞い祈願の時には「黒い馬」を奉納したそうです。
大きな神社では奉納される絵馬の数も規模も大きく、大きな絵馬所の屋根裏には所狭しと大きな古い絵馬が掛けられており、その実態は神社の方々でも全てを把握されていないそうです。中には貴重な文化財が眠っていることもあり、北野天満宮の絵馬所では、桃山時代に長谷川等伯が描いた絵馬が奉納されていることがわかり、重要文化財に指定され、現在は宝物殿に移されて保管されています。

❺ 摂社と末社
摂社と末社の違いは?

神社には祀っている神様がおひとかただけということは少ないようで、殆どの場合は複数の神様を祀っています。大きな神社になれば、その数も多くなりますね。本殿に祀られている神様がメインの神様(主祭神)だとしますと、境内にある祠(小さな社殿)にお祀りされているのがサブの神様。
そしてそんな、サブの神様を祀る小規模の社殿を「摂社(せっしゃ)」或いは「末社(まっしゃ)」と呼んでいます。
「摂社」は主祭神と関係の深い神様を祀っている場合。「末社」とは主祭神とはあまり関係のない、客分の神様を祀っている場合とおおよそ区別されているようです。「赦免地踊り」で有名な秋元神社は八瀬天満宮の摂社であり、また中には「境外摂社」というものもあり、これは境内ではなく外にある 摂社のことで、例えばカキツバタで有名な「大田神社」は上賀茂神社の境外摂社にあたります。

❻ 神輿
神輿とは神様専用のリムジン!

神輿(みこし)」といえば祭りの行列につきものですが、実は神様の乗り物です。高級リムジンなのです。華美を尽くして装飾を施すのは、神様への敬愛のしるしで、大会社の社長クラスの車が一般の車と違って、ハイグレードな車種にされるのと同じです。
 また神輿が一基だけでなく、複数登場する場合、その数だけ主祭神がいらっしゃると考えてよいでしょう。例えば7月の「祇園祭」の神幸祭・還幸祭に登場する神輿は3基です。これは八坂神社の主祭神がスサノオノミコトとその妻「櫛稲田姫命」、子供達「八柱御子神」達が、それぞれのお神輿に乗っていると考えられているからです。
また、時代祭の行列には「神輿」ではなく「鳳輦(ほうれん)」が登場します。「鳳輦」とは「天皇」の最高級リムジンのことで、2基の「鳳輦」に乗られる「桓武天皇」も「孝明天皇」も平安神宮に祀られた神様ではある のですが、天皇であった時代に思いを馳せて「鳳輦」にしているのでしょう。

❼ 京都の代表的国宝社殿(神社の建造物)

現在、京都府内で国宝に指定されている神社建築は「宇治上神社 本殿」と「同神社 拝殿」そして「賀茂御祖神社(下鴨神社)東本殿・西本殿」、「北野天満宮本殿・拝殿・石の間・楽の間」、「賀茂別雷神社(上賀茂神社)本殿・権殿」、「豊国神社唐門」です。
 この中で時代が一番古いのは「宇治上神社 本殿」で平安時代後期です。また二番目に古いのもやはり「宇治上神社」の「拝殿」で、鎌倉時代です。「宇治上神社」のワン・ツー・フィニッシュです。
神社の場合は、神様にはできるだけ新しい建物を使って頂くという考え方があり、古い建造物は残りにくい環境なのです。そして京都で一番古いだけでなく、日本全国を見ても、最古の神社建築ですので世界遺産に指定されています。また上賀茂・下鴨両神社の本殿等メインの社殿は江戸時代末の再建ですが、国宝に指定されています。 神社の歴史は平安京以前、また数多の社殿群は、平安時代以降、再建場所も変わることなく、建築工法もよく伝統よく保ってきたということでしょうか、やはり世界遺産に指定されています。

「少しディープに(応用)」編

❽ 神明造と大社造

神明造(しんめいづくり)」は古代から伝わる神社建築のクラシックスタイル。伊勢神宮の内宮と外宮の各本殿は特に「唯一神明造」と呼ばれ、「神明造」の元祖とされる。切妻の屋根を持ち、高床式で「平入(ひらいり)」という横長の部分を正面に持ってくる造り。屋根には神社特有の「千木(ちぎ)」と「勝男(かつお)()」を据える。京都府では丹後半島など北部にその例が見られ、籠神社(宮津市)や宇良神社(伊根町)などが「神明造(しんめいづくり)」です。
また「大社造(たいしゃづくり)」とは、日本最古の神社建築ではないかとされている「出雲大社(島根県)」の 本殿をルーツとした造り。現在の出雲大社本殿は江戸時代中期の再建で古代のそれとは規模の違いはあるようですが、古代の出雲大社は途方もないほどの高さを誇っていたらしく、本殿から延びた階段は、まさに天空への階段であるかのようだったといわれています。また神明造が「平入(ひらいり)」であるのに対し、こちらは「妻入(つまいり)」、屋根の切れ目の方を正面に持ってくる形式です。

❾ 流造(片流と両流)

神社本殿の造りではこの「流造」がトップシェアで最もポピュラーな様式であるといって良いでしょう。国宝の「宇治上神社 本殿」や「上賀茂神社 本殿・権殿」、「下鴨神社の東西両本殿」もこのスタイルです。上賀茂・下鴨神社はいずれも三間社流造であるのに対し、宇治上神社は五間社流造であり、規模が大きい。「間」とは柱と柱の間を表す建築用語で、決まった寸法があるわけではありません。また屋根は「切妻造」で、「平入(ひらいり)」構造。母屋の前から長い庇が伸び、これを「向拝(こうはい)」と呼びます。横から見ますと「へ」の字のようです。また「松尾大社 本殿」は前と後ろに延びる屋根の長さが同じであるため、「両流造」と呼ばれます。ちょうど昼寝の時に 読みかけの本を顔の上に置いて、横から見たような構図ですね。一般的に「流造」という場合は前者の片流造を指します。

❿ 春日造と住吉造

大社造(たいしゃづくり)」の流れを汲んだ形式で、大阪の「住吉大社」の本殿に代表されることから、そう呼ばれています。「大社造(たいしゃづくり)」と同じく「妻入(つまいり)」つまり屋根の妻側を正面に持ってくるパターンで、長方形の室内を前と後ろに二つに分け、扉に近い手前を「外陣」、奥の方を「内陣」とします。また屋根は直線的でシルエット古代の神殿を彷彿とさせるシンプルさ。形式は「大社造」の流れを受けていますが、その素朴さは「神明造」に共通するものがあります。
また、「妻入」という「大社造」や「住吉造」の形式に影響を受けた造りに「春日造」があります。奈良の春日大社に見られる造りです。ちょうど「流造」の「平入」を、「妻入」に転換させた形式といえるでしょう。その屋根の形を横から見ますと、取手の短い鍋を伏せたような形にも見えます。基本は一間社で4神を祀りますので、コンパクトな神殿が並んでいるという印象を受けます。京都では吉田神社や大原野神社、平野神社などにその例が見られ、やはり春日大社を氏神とする藤原氏との繋がりの深さを感じ ます。

⓫ 八幡造と八棟造

宇佐八幡宮本殿が「八幡造」の古式スタイルを伝えています。「平入」の社殿が二棟前と後ろに建てられ、その間を「相の間」がジョイントするという形式です。役割としては「後殿」が神様を祀る本殿となり、「前殿」が拝殿となります。また、屋根が前後に二つ繋がるため、相の間の上には樋が必要となるのもこの造りの特徴です。京都の石清水八幡宮の社殿もこの「八幡造」ですが、宇佐八幡宮をさらいバージョンアップさせた形式で、神様の数に合わせて「後殿」を三室作り、それに対応するかのように「前殿」も三室から成ります。またこの「八幡造」の系統とされるのが「八棟(やつむね)造」です。
北野天満宮にそのルーツがあるとされ、「八幡造」のジョイント部分「相の間」が「石の間」と呼ばれ進化し、屋根の外観も変化に富むことから、棟が幾つもあるように見え「八棟造」と呼ばれるようになりました。本殿部分の屋根、拝殿部分の屋根、石の間の上の屋根と、屋根のコンビネーションが社殿全体を優美に見せてくれます。後にこの形が「日光東照宮」にも伝わり「権現造」或いは「八棟権現造」とも呼ばれるようになりました。

⓬ 祇園造と日吉造

日吉造(ひえづくり)」は比叡山の鎮守社である日吉大社の造りをルーツとする形式です。内部は内陣と外陣に分かれ、また外観は「平入」ですが、大きな庇が付いて向拝としているため、神殿というよりは仏堂の形式に近く感じます。また日吉大社は、総本社も全国の末社も、その鳥居の形に特徴があり、笠木の上部に大きな三角形が見られれば、山王鳥居(日吉神社系の鳥居)とみて間違いありません。
「祇園造」はその名の通り、「祇園社(現在の八坂神社)」の本殿をルーツとし、こちらも、日吉造と競うが如き大きな本殿形式です。また拝殿を別棟として設けず、本殿の中に礼堂として、拝殿を含んだ形になっています。やはり寺院建築に近いですね。
もともと祇園社は祇園感神社とも呼ばれ、神仏習合の典型でしたので、このように神社建築と寺院建築が融合した経緯も頷けます。

⓭ 「御旅所」とは?

「御旅所」とは神社の祭礼の折に、留まる場所であり、いわば神様の休憩所であり、宿泊施設でもあります。また「御旅所」は一か所とは限らず、大きな神社では複数存在する場合もあります。「御旅所」に神輿が到着しますと、ここでもやはり神事が行われます。
「御旅所」は氏子地域の人々の心の拠り所でもあり、本社にいる神様が年に一度氏子の様子をみにやってきてくれることから、神様に親しみを感じる場所でもあるのです。普段は本社の奥深くに神妙に鎮まっておられる神様も、旅に出れば気持ちも大きくなって願い事を何でも聞いてくれるのかも知れません。祇園祭の神幸祭の後、還幸祭で神様が八坂神社にお帰りになるまで、無言でこの御旅所に七日間お参りにいくと願いがかなうという「無言詣り」の風習も生まれました。本社の本殿に祀られている神様を神輿に遷して、「御旅所」まで行くのが「神幸祭」。そして神輿が御旅所 から神社に帰ってこれられるのが「還幸祭」です。

⓮ 「祝詞」とは?

「かけまくも、かしこくも・・・」で始まる神社でよく耳にする言葉ですが、主に神職が神様に奏上する文章です。その内容は神事を行うにあたり、その意義や目的を神様に恭しくお伝えすることです。もちろん神様に対して畏敬の念を持ちつつです。
平安時代の初期に編纂された「延喜式」にはこの祝詞の文面が59以上も記載されており、奈良時代以前から伝えられてきた「祝詞(のりと)」の例文集が平安時代に書きとめられたのですから、随分と昔の大和言葉を私達は千年以上の時を経て、その頃の言葉のまま、聞いているわけですからこれは貴重なことです。まさに言葉の文化財といえる でしょう。また「祝詞」の一種に「大祓(おおはらえの)(ことば)」というものがあり、これは「修祓(お祓い)」の前に神職が読み上げることがあります。古事記でお馴染みの「天孫降臨」などの神話の話が入った後、神様や人間など諸々の存在が生きていく中で犯してしまう諸々の罪(天津罪、国津罪)を一切がっさい全て、祓戸神(お祓い専門の神様)がまるで産業廃棄物を一括処理するかのように、海のかなたか地の果てに捨ててしまう、というダイナミックな内容です。

⓯ 「式年遷宮」とは?

「遷宮」とは、神様の住まいである本殿を新しくして、そこに移っていただくことを指します。つまり新築の家を建てて引っ越しをしていただくということです。
神域は常に清浄な空間でなくては、よいう人間の願望と、清浄な神域でないと神が留まってくれないのではないか?という畏れがあるのかも知れません。伊勢神宮の場合はそれが20年に一度で定期的だということで「式年遷宮」と呼ばれています。
伊勢神宮以外にもこの式年遷宮が行われる神社があります。上賀茂神社・下鴨神社もやはり20年に一度で間もなくその時期が迫っています。但し、両賀茂社では本殿の新築ではなく、他の社殿の修理・修複等が「式年遷宮」の名のもとに計画されています。出雲大社の場合は60年に一度行われますが、やはり本殿は江戸時代のままで修理のみが実施されます。また昔は、ほとんどの神社でこのような遷宮が定期的に行われていたのですが、経済的事情また用材や職人の確保の困難さによっ、遷宮を 実施している神社は時代の流れとともに激減しています。

4.庭園編

「最初の第一歩(入門)」編

❶ 「庭園にはどんな種類があるの」?

日本庭園は大きく分けて「池泉庭園」・「枯山水」・「露地」の三種類に分類できます。
小川や池など水のある庭園が「池泉庭園」です。舟を浮かべて楽しむ「池泉舟遊式」、廻りを歩いて楽しむことのできる「池泉廻遊式」、書院などの建物に座ってゆっくり眺めて楽しむ「池泉(坐視)観賞式」と分類することができます。
(かれ)山水(さんすい)とは、もともと禅寺等に造られた水を一切使わない庭園のことで、現在は禅宗寺院に限らず、神社でも民家でも幅広く作庭されています。比較的広い敷地を必要とした大がかりな池泉庭園に対し、限られた面積を有効に使うには、水を使わずに山水をギュッと凝縮させた「枯山水」が最も適したスタイルだったのでしょう。庭のモチーフは不特定の自然の山水に留まらず、特定の景勝地や故事であったり、思想であったり、伝説であったり、全くの抽象的デザインであったり、多岐に及びます。また禅寺の場合、この枯山水は、客人をもてなすことも想定されていますが、座禅を組む時に僧が枯山水に相対することもあります。特に夜は白砂が月光の照りを受けて、独特の空間を醸成するそうです。露地(ろじ)については、またあらためて「茶室編(現在工事中)」でご紹介しましょう。

❷ 庭園略史

先ず登場したのは、どうやら「池泉庭園」のようです。遠く飛鳥時代の蘇我馬子など蘇我一族の屋敷跡(嶋の館跡)に、その原型を見てとれることができます。百済からの渡来人が作庭したとされています。奈良時代には朝廷や有力豪族の屋敷に、平安時代には貴族の邸宅に遣水(やりみず)(小さな川)が流れ、池を造り、その上で舟を浮かべて客人をもてなしたことから発展したとされていますが、平安時代の中頃からの末法思想の蔓延と共に、「浄土式庭園」へと発展していきます。つまり池を浄土(仏の国)の池を見立て、そのほとりに仏を安置する仏堂を建てたのです。
鎌倉時代になりますと、禅宗の広がりとともに「枯山水」が生まれ、室町時代には禅宗の発展と共に、枯山水が大いに発展し、また将軍家や守護家など有力な武士階級の邸宅に、池泉式庭園も造られるようになります。
桃山時代になりますと、枯山水にしても、池泉式庭園にしても、巨岩を配するような傾向が見られます。「刈込」の場合は大刈込が目立ちます。これらは天下人の力の象徴ともいえるでしょう。
江戸時代に入りますと、徐々にその傾向は薄れ、石組や刈込は、こじんまりと調和の取れた傾向に移り行きます。時代背景が、庭の作風に表れているのは興味深いことですね。
また、室町時代末から徐々に確立されてきた茶道と共に「露地(茶庭)」が造られ始め、江戸時代以降諸流の茶道の発展と共に多数作られるようになりました。
明治になりますと、それまで力を持っていた武家から政財界の有力な人物達が自らの好みを反映した個性的な庭園を作るようになります。

❸ 滝石組

日本庭園の特徴は「見立ての妙」ともいえるでしょう。様々な「見たて」が庭園のそこかしこに垣間見えます。中でも一番象徴的な「見たて」は(たき)石組(いわぐみ)ではないでしょうか? 文字通り滝を表現した石組です。ひと口に(たき)石組(いわぐみ)といいましても実は多くの種類があり、一番判り易いのは三段落ちの「龍門瀑」でしょう。滝がジグザグ状に三段階に流れ落ちているのですが、これにはモデルがありまして、中国の黄河の中流域にある「竜門」の滝がそうであるとされています。伝説によりますと、その三段の龍門の滝を無数の鯉が滝登りに挑戦し、最後まで登りきった鯉だけが竜になるという伝説です。ここから「登竜門」という故事が生まれ、大きな関門や試験などを意味するようになりました。また日本でもお馴染みの「鯉のぼり」のルーツもやはりこの「竜門」にあるとされています。三段の巨大な滝を登るように出世をしてほしい、元気に活躍してほしいという、親から子への願いを込めて子供の日に泳がせるのです。となりますと、吹き流しは竜門の滝の流れを表している ことになりますね。

❹ その他の石組

「滝石組」につきものなのが、滝に登って行こうとする鯉をイメージした鯉魚(りぎょ)(せき)。流れに逆らって泳ぐ鯉の力強さが感じられます。また、蓬莱思想の窺える庭で時折見られるのが、池の中に規則的に一列に並ぶ()(どまり)(いし)(「やはくせき」とも読む)」。秦の始皇帝の命を受けて蓬莱島に向かう「徐福」の船団を表しています。
また道教思想の影響を受けた「蓬莱島」そのものを表す「蓬莱石組(蓬莱島)」。鶴を表す「鶴石組(鶴島)」、亀を表す「亀石組(亀島)」。一つの石だけの場合はそれぞれ蓬莱石、鶴石、亀石となります。また仏教の影響を受けた石組もあります。仏達の住む山(世界)を表現した須弥山(しゅみせん)石組(いわぐみ)
あるいは三つの石を立て、真中を如来、両脇を脇侍である菩薩に見立てた「三尊石組」「十牛図」に登場する牛に見立てた石など見立ての世界はいろんな宗教の影響を受けて膨らみます。

❺ 灯籠

「灯籠」とはもともと、社寺への献灯のためのものでした。奈良の大寺院に行きますと、今でも境内の中央に大きな石灯籠や鉄灯篭が御堂に向かって立っている姿をよくみかけます。京都でも神社の境内には夥しい数の石灯篭が奉納されています。ちなみに南禅寺の三門の前には大きな石灯篭が置いてありますが、これは日本で二番目の大きさだとか。さて、本来の目的から、桃山時代頃になりますと、茶人達らによって灯籠が庭の灯りとして取り入れられるようになるのです。夜の茶事のためだったのでしょう。
そして灯りという用途から、庭の点景へと移り変わっていきます。中でも趣のあるのが「雪見灯篭」
雪が多く積るように笠の表面積が大きいのが特徴です。仙洞御所から伝わり泉涌寺の御座所(本坊内)にあるものから派生したという「泉涌寺式雪見灯篭」は屋根が八角形なので、すぐに判ります。また古田織部が考案したと伝わる「織部灯篭」。この灯籠は別名を「キリシタン灯籠」といい、十字架をそのデザインに隠しているという神秘的な形をしています。また投身の前面にはお地蔵さん(マリア様)が彫られ、台座がなく直接地中に埋め込まれているのが大きな特徴です。

手水(ちょうず)(ばち)

「手水鉢」には書院等の建物の縁先に置く「縁先手水鉢」と、露地などによくある丈の低い(つくば)()があります。後者は、茶室に入る前に手を清めるという極めて実用的な意味合いが今でも残っていますが、前者は実際に手水として使われることも最近では少なくなり専ら観賞用として縁先にその存在感を表現していることの方が多いようです。清水寺成就院の「誰が袖手水鉢」はその一例です。この手水鉢は「色よりも 香こそあはれと 思ほゆれ 誰が袖ふれし 宿の梅ぞも(詠み人知らず)」という古今集の歌に因んで命名された、何とも風流なネーミングの手水鉢です。
他にも、京都には面白いデザインの手水鉢が有ります。「曼殊院」の「梟の手水鉢」「円徳院」の「桧垣形手水鉢」「慈照寺」の「銀閣寺型手水鉢」はその例です。

❼ 京都の代表的庭園(池泉庭園)

庭の国宝ともいえる「特別名勝」に指定され、しかも「特別史跡」に指定されている、いわばダブルタイトルの庭園は京都で三か所あります。鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・醍醐寺三宝院でいずれも池泉庭園です。
また国の名勝・特別名勝の指定を受けている庭園の中で、京都で最も時代の古いのは「旧嵯峨院大沢池」で平安時代初期です。大覚寺の大沢池一帯の境内地のことです。ここには百人一首でも有名な「名古曽の滝」が復元されています。また、次に古いのは「法金剛院」「浄瑠璃寺」などの浄土式庭園でいずれも平安時代末期の作庭です。どちらも特別名勝に指定されています。中でも法金剛院の「青女の滝」は前述の「名古曽の滝」と並んで有名です。また苔寺で有名な「西芳寺」「黄金池」を中心とする池泉庭園、嵐山と小倉山を借景として巨大な「曹源池」の広がる「天龍寺庭園」、御殿の殆どの書院から見ることが できるように作られた「二条城 二の丸庭園」も特別名勝に指定され、今も多くの人を魅了します。

❽京都の代表的庭園(枯山水)

枯山水の表現には山水を縮めた具体的なタイプと、禅的な何かを表現している抽象的なタイプとに分かれるように思います。
前者の顕著な例が「大仙院書院」庭園です。滝石組から水が流れおち、川となって、大海に注ぐという自然を濃縮還元した教科書のような枯山水です。このような例は他にも退蔵院東庭(元信の庭)酬恩庵北庭にも見られます。
後者の例として最も有名な庭園は龍安寺方丈の枯山水でしょう。十五個の石を配置した「虎の子渡し」とも呼ばれる世界的にも有名な庭園ですが、実はこの庭園を世界に知らしめたのは、英国のエリザベス女王だったのです。現在、国の内外を問わず多くの拝観客が訪れ、白砂と僅かな苔に浮かぶ石の配置の妙を、それぞれの思考回路で考えています。決まった答えはないと言われていますが、作庭者の意図をあれこれと探求することは楽しいものです。このような抽象的な表現をした庭園は他に「南禅寺方丈庭園」、「東海庵書院庭園」、「大徳寺方丈庭園」などがあります。
また具体的な故事や景色を表現した枯山水としては、「虎渓の庭」を表わした「本願寺書院庭園」「近江八景」を表現した「孤篷庵庭園」などがあります。

「少しディープに(応用)」編

橘俊綱と「作庭記」

日本最古の庭園解説本、或いは秘伝の書ともいえる「作庭記」。平安時代の中期に書かれ、原本は失われていますが、現存する最古の写本「谷村家本」によりますと、もともとは前田家に伝わったとされています。
図や挿絵など画像の類は一切無く、文字だけで庭園の奥義を伝えようとするこの書の作者はいったい誰なのか?論議を呼ぶ所です。江戸時代に書かれた「群書類従」では、その筆者が「後京極良経」とされていますが、様々な研究が進むにつれ、最近では「橘俊綱」がその作者と目されています。この方は「橘」という姓ですが、「藤原氏」の出身で、あの頼通の息子です。父、頼通の受け継いだ宇治殿(後の平等院)を前に、宇治川を挟んで、伏見側の対岸に自分の邸宅を建てたことからも「伏見長者」と呼ばれていました。父が別荘を寺にしたのと同じように、自分の邸宅を即成就院という寺にしました。
この寺院が移転を繰り返し、現在、泉涌寺の塔頭となっている(そく)成院(じょういん)のルーツです。
また、平安時代の庭園関係の書といいますと(よし)(しげの)(やす)(たね)池亭記(ちていき)も?と、思われるかもしれませんが、こちらは庭園関係の内容ではなく、隠居の身で平安京の遷り変わりを綴った書です。

❿ 夢窓国師

()(そう)()(せき)(1275-1351)は伊勢の出身といわれ、真言や天台の教学を学んだ後、18歳の時に東大寺で戒を授けられ、建仁寺を始め諸国を歴遊して禅の修行を積み、恵林寺(甲斐)や永保寺(美濃)、瑞泉寺(鎌倉)など今でも有名な寺院をいくつも開きました。後醍醐天皇の信任も厚く、足利尊氏・足利直義兄弟とも親交があり、南北朝の動乱が治まった後は、足利兄弟に対し、戦乱で犠牲になった人のために、諸国に安国寺・利生塔を建てるように進言。また後醍醐天皇の冥福を祈るための寺院建立も勧めました。元との貿易によって建てられたその寺院とは今でも著名な「天龍寺」です。
その天龍寺の住持(現在の管長)となり、自らプロデュ-スしたのが、方丈の北に広がる池泉庭園。
池は曹源(そうげん)()と呼ばれ、庭そのものの代名詞ともなっています。他にも、西芳寺庭園など数多くの庭園を自ら手掛けました。また南禅寺の住持を二度も歴任しているため南禅院庭園も国師の作では ないかと目されていますが、こちらは現在のところ確たる証拠が見つかっていません。

⓫ 雪舟と狩野元信

「雪舟」と「狩野元信」、二人は絵師です。 絵画と庭園、一見お門違いのようにも思えますが、敷地をキャンパスに見立て、石や植栽を絵具と見立てれば、相通じるものがあるようにも思えます。
雪舟は美作(岡山県)の生まれで、京の都に出て相国寺の周文に画技を習ったと言われています。
もともと絵筆には興味があったのでしょう。小僧時代、いたずらが過ぎて、柱に縛られ、涙を足の指でなぞって鼠の絵を描いたというエピソードが残るくらいですから。東福寺で修行をした後、南宋(中国)に渡り、本場の水墨画を吸収しました。晩年は周防に移り住み大内氏の庇護のもと画業に専念しました。
その雪舟が作庭したといわれる庭が、修行時代を過ごした東福寺の塔頭芬陀院(ふんだいん)で守られています。
また、雪舟と同時代を生きた絵師「狩野正信」の跡取り「狩野元信」が作庭したと伝わる庭園が妙心寺の塔頭退蔵院(たいぞういん)に残され、名勝史跡に指定されています。亀島の表現が非常に解りやすく並べる石も石組も、少しではありますがそれぞれ個性的な色合いが出ていて、成程!絵師が手掛けた庭だ!  色彩感も表現の具体化も、庭を見る人に判りよい!と唸ってしまいます。

⓬ 相阿弥

政治家というよりも文化人としての側面が強かった室町幕府第8第将軍足利義政「同朋衆」で、「三阿弥」の一人。同朋衆とは将軍お抱えの鑑定家(唐物や刀剣)であり、絵師であり、連歌師であり、座式飾りコーディネ―ターであり、作庭家でもありました。いわゆる室町将軍の芸術コンサルタント&プロデューサーですね。三阿弥とは「真能(能阿弥)」・「真芸(芸阿弥)」・「真相(相阿弥)」の三世代の同朋衆です。三阿弥、つまり祖父、父、自分と三代の集大成といえる(くん)大観(だいかん)左右帳記(さうちょうき)という本を記しています。絵師としては「大仙院」の襖絵などが知られていますが、作庭家としては、その作品とも言うべき庭の作者というには確証が乏しく、伝の域を脱しませんが、大仙院書院・龍安寺方丈・青蓮院・鹿苑寺方丈・成就院の庭園などが相阿弥作と伝わります。

⓭ 小堀遠州と賢庭

小堀遠州(1579-1647)は本名「小堀政一」。その役職が「遠江守」であったことから「遠州」と呼ばれるようになりました。北近江の出身で、父は浅井長政に仕えていましたが、遠州が生まれた頃には、浅井家は織田信長に滅ぼされ、北近江は羽柴秀吉が治めていた頃でした。遠州は秀吉の弟、秀長に仕え、その領地であった大和郡山で近くの堺の商人・茶人とも交流があり、千利休と出会ったのもこの頃とされています。
その後秀吉の居る伏見城に出仕し、そこで古田織部に茶の湯の手ほどきを受けました。秀吉が亡くなると、今度は徳川家康に仕えます。関ヶ原の戦い以降、備中・駿府・北近江・伏見と各地を転々とし、それぞれの地で作事(さくじ)奉行(ぶぎょう)として建築や造園にその手腕を発揮します。仙洞御所駿府城・名古屋城など、宮中・幕府の大きな仕事を任されていた大手ゼネコン的な存在だったのでしょう。南禅寺金地院遠州賢庭の作で、二条城二の丸庭園も遠州作と推定されています。また当時は作庭や普請の神様的な存在でしたので、各地で遠州の造った庭という伝説が多く生まれました。全国を渡り歩いた遠州だけに、造園に携わった可能性もありますが、むしろそれは庭園史に残る遠州の存在の大きさを表していると考えたいですね。

⓮ 松永貞徳と石川丈山

松永貞徳(1571-1654)は俳諧の先駆者として有名ですが、もともとは歌人です。
俳句を吟ずることが、歌の修錬になると考え、やがて俳諧の方で名を高めていきます。京で生まれ、連歌を里村紹巴に学び、歌を細川幽斎(藤孝)に学んだとされます。「俳諧」はもともと「連歌」の一つのパーツだったのですが、これを独立させたのが松永貞徳でした。連歌一筋の人達からは、面白くなかったでしょうが、これが時代の風潮にあったのでしょう。
松尾芭蕉も最初は、この松永貞徳が興した「貞門流」の俳諧を学んでいます。しかし、芭蕉は後にライバル勢力となる西山総因が興した「談林風」に入っていき、独自の境地に達して「蕉風」という新しい一派を成し、俳聖と呼ばれるようになります。
さて、松永貞徳に話を戻します。言い伝えによりますと彼が作庭したといわれる「雪月花の庭」が京にありました。現在もその内の二庭が残っています。貞徳は寺町二条、清水、北野(一説には祇園)、に同時に庭園を造ったとされ、寺町二条の妙満寺を「雪の庭」、清水を「月の庭」・北野を「花の庭」(現存せず)と称し、それぞれが「成就院」という塔頭にあったことから成就院「雪・月・花の三名庭」、或いは「雪月花の庭」と並び称されています。 現在、妙満寺の「雪の庭」は岩倉に遷った際、妙満寺塔頭の 「成就院」から本坊に移されました。

⓯ 小川治兵衛

江戸時代から明治時代へと時代が大きく変わった頃、庭園の発注主も武家や公家から、政財界の要人へと大きく変わっていきました。明治維新の直後、庭園史にとっても大きな分岐点に登場したのが「小川治兵衛」です。「小川治兵衛」という名は「植治」の代々の当主が継ぐ名前で、正確には「七代目小川治兵衛」となります。「植治」イコール「七代目」と言われるくらい著名な方です。
優れた造園家には、インスピレーションを与える良きスポンサーがいたようで、この七代目にとっては、明治の元勲(政界の大物)山県(やまがた)(あり)(とも)がそうでした。彼はそれまでの日本庭園よりも、もっと明るく開放的で自然をより多く取り入れた庭を、所望しました。苔よりも芝生を多く取り入れ、水を留める池よりも、渓流を多く造ることによって音による楽しみも加え、さらにその水には当時開通したばかりの琵琶湖疏水を使いました。もちろん、それまでの日本式の庭を否定するのではなく、随所に伝統は守りつつも、新しい風を庭の世界に吹き込んでいったのです。
彼の代表作は数多く残され、「無鄰菴」・「平安神宮神苑」・「並河靖之邸(七宝記念館)」・「円山公園」他多数残されています。

重森三(しげもりみ)(れい)

重森三玲(1896-1970)は岡山県出身で、東京の学校に学び、生花や茶道の稽古に励み、当初は画家を志していました。しかし画家の道を諦め、再び上京する途中、京都により古社寺の庭園に興味を持つことになりました。独学で庭園を学び、全国500ヶ所の名庭を実測調査する内に、日本庭園史の重鎮になっていったのです。昭和11年(1939)には「日本庭園史図鑑」全26巻を、そして昭和51年(1976)息子,重森(しげもり)(かん)()と共に完成させた「日本庭園史大系」全33巻は日本庭園史の集大成ともいえる研究成果であり、今も多くの庭園関係者の参考にするお庭の百科事典のような存在です。
また研究の傍ら、多くの枯山水の作庭も試みています。京都でも「東福寺本坊庭園」・「龍吟庵庭園」・「瑞峯院庭園」・「松尾大社庭園」など代表的なものだけでも枚挙に暇がありません。
また「三玲」という名前は、フランスの画家「ミレー」にあやかったもので、子供達にもヨーロッパの著名人の 名前を付けています。「完途」はドイツの哲学者「カント」。「由郷」はフランスの文学者「ユゴー」にちなみます。

5.絵画編

日本絵画の種類と京都の代表的絵画

仏画
絵巻
禅画
山水花鳥画
洛中洛外図
絵馬
京都の代表的絵画

「最初の第一歩(入門)」編

❶ 仏画

「仏教」関係の絵画のことです。儀式や法要に使用する掛軸や屏風、またお堂や塔など建物の中に描かれる場合もあります。前者の例で、古いものですと密教の世界観を表現した「曼荼羅」があります。曼荼羅には「金剛界」と「胎蔵界」の二種類があり、いずれも大日如来を中心とした諸仏・諸菩薩等の緻密な絵です。「潅頂」という密教独特の儀式の際などに掛けられました。
他にも「山水(せんずい)屏風」という、これも密教の法要や儀式で間仕切りに利用される屏風があり、いずれも「東寺」や「神護寺」など弘法大師ゆかりの寺院に古いものが保存されています。
また、堂内・塔内部に描かれる仏画は、板壁に柱、梁などに描かれ、これらは内部に祀られる仏像・尊像と一体化今して、仏の世界(浄土)を表現していることが多いようです。有名なところでは「平等院鳳凰堂(国宝)」・「仁和寺金堂(国宝)」・「仁和寺観音堂(重文)」などあります。また、「東寺五重塔(国宝)」の初層(1階)板壁には、真言八祖像が描かれています。これはインドから日本へと伝わる密教の奥義を、インドの(りゅう)()から、中国の恵果(けいか)弘法大師空海(くうかい)へと、八人の真言宗 の高僧を描いたものです。

❷ 絵巻

絵巻物は奈良時代に考え出され、平安時代の国風文化による物語や説話が書かれるようになってから一気に流行したようです。古いものでは醍醐寺や上品蓮台寺に伝わる「絵因果経」が挙げられます。これは、お釈迦様の説話を絵巻化したもので、内容的には仏画になります。また、源氏物語は書かれた当初から大ベストセラーとなり、画帳や絵巻も数多く作られたようですが、現存する最古の源氏物語絵巻は徳川美術館や五島美術館に残されている平安時代末期のものです。
またアニメーションの原点とも例えられる高山寺蔵の国宝「鳥獣人物戯画」はウサギやカエル、サルなどを登場させ、当時の世相を風刺したとされる傑作です。漫画家の手塚治虫氏この絵巻を見てたいへんな衝撃を受けたと語っていました。千年近い昔に、すでに現代の漫画の手法が試みられていると。
また、国宝「信貴山縁起絵巻」も、やはり平安時代末に描かれたとされ、信貴山朝護孫子寺にまつ わる霊験譚(世にも不思議な話)を表現していますが、人物などの生き生きとした描写が特徴です。

❸ 禅画

「禅機画」ともいいます。禅宗も仏教ですから、本来は仏画の一種となりますが、特に日本絵画史上には禅画が多いので、ジャンルを分けしました。
まず「達磨図」。達磨太子と呼ばれるように元はインドのある国王の息子です。インドで仏教の教えを広めていましたが、やがて中国のある国の王から招かれて、「仏教を信仰していると、どんな良いことがあるのか?」と問われ、「何も無い!」と言い切りました。見返りを求めて仏教を信仰している国王に落胆したようです。やがて達磨は中国南部に移動する折、大河を前に一枚の芦の葉を川面に浮かべ、その上に乗ってスーッと渡って行きました。この時の様子を描いたのが「芦葉達磨図」。またその後、崇山少林寺に籠って面壁九年の座禅三昧に入ります。長い間の座禅に足も手も退化してしまったとさえ言われました。この時の様子が達磨さん人形でも有名な姿。
もとは絵で描かれていたものが人形化されたようです。また弟子を取らない主義の達磨にどうしても弟子入りしたとやってきた慧可。彼は、自分の片腕を臂のところで切り落としてまで。その覚悟の程を見せたといいます。この時の様子が「慧可断臂図(国宝:斎年寺所蔵)」。達磨を祖とする 禅宗の僧は、その後、様々な方が登場し禅画の中で長く人々の心の中に残っていきます。

❹ 山水花鳥画

障塀画・屏風・軸を通して、日本では古来より最も多く描かれているのではないでしょうか。 もちろん水墨画あり、金碧画ありです。四季のはっきりとした日本では、折々の草花、鳥などを巧みに組み合わせることによって、観る者を魅了してきました。もちろん、中国の影響を受けてはいますが、日本の画家達は決して単なる模写をするだけではなく、必ず、日本人の感性に受け入れてもらいやすいようアレンジしています。
中でも狩野派による山水花鳥図は多く現存しています。初代、狩野正信が描いたとされる「竹石白鶴図(重文:真珠庵所蔵)」、二代目「元信」が描いた「山水花鳥図(重文:霊雲院所蔵)」、また三代目「松栄」と4代目「永徳」の合作、聚光院の国宝「花鳥図」他、方丈障壁画。また6代目探幽が描いた大徳寺本坊の「山水図(重文)」他、方丈障壁画など。狩野派のリーダー達は大作の山水花鳥図を手掛けています。応用的にいろんな画題に取り組むこともありますが、基本である山水や花鳥など を描くことも重要なことだったのでしょう。

❺ 洛中洛外図

京の都の中心部を上空から活写したもので、飛ぶ鳥の目線で見た「鳥瞰図(ちょうかんず)」という手法、いわゆる俯瞰図です。
町衆が力を持ってきた室町時代後半頃に誕生したと考えられますが、現存する「洛中洛外図」は桃山時代から、江戸時代初期のものが主流です。軸物もありますが、一般的には屏風絵で、「六曲一双(ろっきょくいっそう)」という各6面で2枚の屏風形式が一番多いですね。その場合、右隻(右の屏風)には東部が中心に描かれ、左隻には西部や北部を描かれています。「聚楽第」「二条城」など、洛中の巨大な建築物はその建造年代が判っていますので、図の描かれた年がある程度絞り込めます。
有名な「洛中洛外図」といえば、現在米沢の上杉神社にある国宝「洛中洛外図 上杉本」です。
これは織田信長上杉謙信に贈った屏風として有名で、16世紀中頃の都の様子が手に取るように解ります。祇園祭の山鉾なども描かれ、応仁の乱後から立ち直った都の町衆のエネルギーが感じられます。「洛中洛外図」には千人を超える人々が描かれ、商売や生活の様子など当時の様子がよく解り、 民俗学的にも価値のある文化財といえるでしょう。

❻ 絵馬

絵馬とは馬の代用品です。昔、神社に本当の馬を奉納することにより祈願をしていたことがありました。朝廷が雨乞いの際には黒い馬を、雨止みを祈る時には白い馬を水の神様、に奉納していたのです。「貴船神社」ではそのように伝わります。
やがて本物の馬の代わりに大きな駒形の木の板に馬の絵を描き奉納するようになり、やがて物語の場面など色んな絵を板に書いて奉納するようになりました。願い事だけでなく、神社に芸能を奉納(披露)する時にはその記録として、演目や役者名・日などを絵馬に書いて奉納しました。 大きな神社には、そんな巨大絵馬が掲げられている絵馬所(舎)が大概あります。中には有名な絵師が描いて、そのままにされている例もあり、北野天満宮では、桃山時代の巨匠、長谷川等伯が描いた昌俊弁慶相騎図(しょうしゅんべんけいそうきず)という大きな絵馬が400年もの間、作者が判らないまま、吹きさらしの絵馬所に無造作に懸けられており、調査の結果、等伯の真作と判った時点で宝物館に安置されるようになりました。現在は重要文化財に指定されています。

❼ 京都の代表的絵画

絵画は紫外線に弱いため、寺社などでそのまま拝観できるところは極めて限られています。やはり外光をシャットアウトし、温度・湿度を一定に保つことのできる宝物館などの施設で保管した方が安全です。
そのような設備で安心して見学できるのはほぼ一年を通じて公開しているのは「智積院」宝物館内の国宝「楓図・桜図」、「二条城二の丸御殿」の襖絵が収められた収蔵庫。「妙蓮寺」宝物館の「鉾杉図」、豊国神社宝物殿の「豊国祭礼図屏風」などです。
また寺院の宝物館でも春・秋には仏画など寺宝の絵画類も公開しています。例えば仁和寺の国宝「孔雀明王像図」東寺の「両界曼荼羅」、醍醐寺の「舞楽図」(展示替えや年によっては展示されない場合もありますので、来館前には事前にお問い合わせを)。
またどうしても寺院で、本来の場所で拝観したい時は、聖護院宸殿の襖絵(事前予約必要な時期有り)、実相院客殿の襖絵、或いは毎年5月1日から5日間限定で特別公開している神護寺の「伝、源頼朝 像」「絹本著色 釈迦如来坐像(赤釈迦)」、「山水屏風」(3件いずれも国宝絵画)がおすすめです。

「少しディープに(応用)」編

❽ 明兆と如拙

禅の修行を続けながら、絵を嗜んだ僧はたくさんいらっしゃいますが、画僧と呼ばれ絵を描くことに特に高い能力を発揮した僧もいたようです。画技を極めることも、これまた修行と考えたのでしょう。
明兆(1352-1431)」は吉山(きっさん)明兆(みんちょう)といい、東福寺で「殿司(でんす)」という役職に就いていました。会社でいう庶務課です。それゆえに「兆殿司(ちょうでんす)」と呼ばれることもあります。日本における水墨画の先駆者とされ、後に続く如拙・周文・雪舟に影響を与えた大先輩的な存在です。
また、(じょ)(せつ)(生没年不詳)は相国寺の画僧であり、退蔵院所有の国宝(ひょう)鮎図(ねんず)の作者として、世に知られています。この水墨画は禅画の最高傑作とも言われ、瓢箪を以て如何に鯰を捉えるか?という禅的な問いかけに当時の京都五山のエリート僧32人が真面目にその答を寄せています。いわゆる「禅問答」ですね。それが絵の周りに「讃」として書かれているという面白い水墨画です。表面がヌルヌル鯰を、 表面がツルツルの瓢箪でいかに捕まえるか? さて、あなたならどう答えますか?

❾ 周文と雪舟

「周文」が相国寺の「都管(つかん:つうす)」という、会社でいえば経理課を担当していた頃、若い「雪舟」が相国寺に入ってきました。「周文」如拙から引き継いだ室町幕府の御用絵師の仕事も続けながら、当時五山文学をリードしていた相国寺の中でも水墨画を教えるという、今でいう大学教授のような働きもしていたのです。世に周文様と呼ばれる画風も確立した周文でしたが、残念ながら、現在彼の真作と断定できるものはなく、全て伝、周文です。師である如拙の真作が3点伝わっているのとは対照的です。
また周文から教えを受けた雪舟はやがて東福寺で修行をし、大先輩であった明兆に私淑し、周防に向います。「雲谷庵」という名のアトリエで独自の画風を求めていました。やがて48歳の時に明へ渡り、本場中国で水墨画を学び、日本に帰ってきてからは美濃や周防で画業に専念します。特に晩年は周防の戦国大名、大内氏の庇護を受けながらも旅にでることもありました。70歳を過ぎてからの旅で、天橋立に立ち寄り、その直後に国宝「天橋立図」(京都国立博物館蔵)を残しています。この水墨画の大作は実際に絵のように見渡すことが不可能なパノラマ的な鳥瞰図であり、旅を続けてきた雪舟の自由な心が描かせた、なんてこと も考えられるのかも知れません。

❿ 狩野元信と土佐光信

「狩野元信」は狩野派の祖である父、正信から画業と一派を継ぎ、画檀の基礎固めに奔走していたようです。 もともと狩野派は武士階級の出身であり、如拙・周文ら画僧とは一線を画していようで、折しも時は戦国時代、足利将軍家の持つアカデミー機構も崩れ始め、時代はまさに大きなうねりを見せ始めていました。そんな新時代に対応すべく、いち早く来るべき新興階級に対応しようと、雄渾な水墨画のタッチに伝統的な大和絵風の柔らかみを調和させた、独自の画風を確立していきました。
噂では土佐光信の娘と縁組してまで、その画風の確立を目指したとか。その後は幕府だけでなく、土佐派が占めていた宮廷の仕事にも進出し、町衆の要望にも応えていました。当然、仕事量が増えますが、職業技能集団化することにより、多くの注文に応えていったのです。
妙心寺の塔頭、霊雲院は狩野元信が参禅し、また山水図など水墨画を残したことから「元信寺」と言われるほど、元信の水墨画(当初は襖絵など障塀画でしたが、現在は軸装)が多く残されています。

⓫ 狩野永徳と長谷川等伯

織田信長豊臣秀吉など天下人の象徴、城内の障壁画群、また彼らが修理を命じた御所の障壁画群。狩野永徳が家督を継いでからは、主な発注は殆ど狩野派で占めていました。祖父の築いた職業技能集団としてのシステマティックな仕事ぶり、つまり分業制による障壁画の制作が、大量注文の受注を可能にしたのです。遅咲きの天才絵師と言われる「長谷川等伯」も最初は、狩野派の絵師でした。しかし、歯車的に仕事をこなす狩野派の方針について行けず、独立し長谷川派を立ち上げます。おそらく面識のあった千利休の取成しでしょうか、豊臣秀吉から大きな仕事を任されました。愛児鶴松の菩提を弔うために建てた「祥雲禅寺(東山七条にあった禅寺)」の金碧障壁画。そう今に伝わる智積院の国宝障壁画です。息子や門人と共に長谷川工房総出で完成させたのですが、その直後に後継ぎの長谷川久蔵が26歳の若さで突然亡くなってしまいます。また画檀のシェア争いをしていたライバルの狩野永徳も49歳の働き盛りでこの世を去ります。等伯は晩年江戸の徳川将軍家に呼ばれ、その帰りの旅の道中で亡くなりました。享年 72歳でした。

⓬ 狩野山楽と海北友松

「狩野山楽」「海北友松」。どちらにも武士の血が流れています。山楽は木村重頼といい、少年時代は後に永徳の弟子となって、秀吉お抱えの絵師となります。伏見城の障壁画の多くはこの山楽が手がけています。しかし徳川の世となってから山楽は居場所をなくしますが、後に赦され、狩野宗家の探幽らと共に仕事を徳川家から与えられることもありました。しかし山楽は養子の山雪と共に京に留まり、後に(きょう)狩野(がのう)と呼ばれるようになり、主に寺院や御所からの仕事を請け負うようになります。
また海北友松は元、浅井家の重臣筋の生まれで、浅井家滅亡の後は出家して、少年時代を東福寺で過ごし、後に画家として大成し、建仁寺妙心寺など禅宗寺院に数多くの作品を残しています。また友松は明智光秀の重臣、斎藤(とし)(みつ)と親友で、山崎の合戦後には、その娘「ふく」を引き取り、親代りに面倒を 見たそうです。その「ふく」こそが後の「春日局」です。

⓭ 狩野探幽と土佐光起

狩野探幽(1602-1674)」は赤子の頃、泣いていても絵筆を持たせたら泣きやんだというエピソードを持つ程、幼少の頃からその天才ぶりが窺えます。天才画家と呼ばれた永徳を祖父に持ち、孝信を父とし、僅か10歳で徳川家康と面会し、17歳の時には江戸の鍛冶(かじ)(ばし)に屋敷を拝領し、京から江戸へと一門挙げての大移動を果たし、狩野派を率いる若きリーダーとして成長しました。
25歳の時には二条城二の丸御殿を埋め尽くす数多くの障壁画群を一門総出で完成させます。その後日光東照宮・大坂城・名古屋城など、次々と幕府の大きな仕事をこなしていきます。
探幽の作品は残っているものが多く、そのいくつかを京都の寺院で拝観することが今でも可能です。
非公開ではありますが、大徳寺本坊徳禅寺には水墨画の襖絵が残り、知恩院の三門楼上の天井画も狩野派が描いたとされ、探幽の指揮した可能性が強く残ります。またいつでも拝観できる探幽の大作としては妙心寺法堂の天井画「雲龍図」、通称「八方睨みの龍」が有名ですね。堂内のどこから見ても龍の視線が自分を追いかけてくるようなそんな気分にさせてくれる探幽入魂の作です。これを描いた時には72歳でした。

⓮ 円山応挙と呉春

円山応挙(まるやまおうきょ)(1733-1795)」は丹波国穴太村(亀岡市)に生まれました。農家の出身でしたが、出家をした後、絵に才能があることを見込まれ、15歳で狩野派の流れを汲む鶴沢派の「石田(ゆう)(てい)に手ほどきを受けます。生活費を稼ぐため当時流行していた眼鏡絵を描くようになり、その時身に付けた遠近法や忠実な写生描写が後の作風に大きな影響を与えています。
金剛院(亀岡市)大乗寺(兵庫県香住町)金刀比羅宮表書院(香川県)には応挙の障壁画の真骨頂をみることができます。また、洛北一乗寺にある圓光寺には重文「雨竹風竹図屏風」(レプリカ通常展示中)が残されており、境内に残る竹林を描写したものと考えられていますが、日常の自然現象である雨や風をここまで抒情的に高めた技量は応挙ならではといえるでしょう。
また応挙の弟子であった「松村(まつむら)月渓(げっけい)(1752-1811)」は、後に名を呉春(ごしゅん)とあらためました。大阪の池田市「呉春」という酒好きによく知られた銘酒がありますが、そのネーミングは呉春が一時期池田の呉服(くれは)の里に住んでいたことによります。彼は応挙に写生の基本を学び、与謝(よさ)蕪村(ぶそん)に南画を学び、応挙とはまた違った抒情的かつ写実的な絵を描くようになりました。「応挙」の「円山派」「呉春」の「四条派」。 両者を併せて「四条円山派」と呼ぶこともあります。

⓯ 伊藤若冲と曽我蕭白

伊藤若冲(1716-1800)」は江戸時代の半ば、錦市場の青物問屋の跡取りとして生まれました。
当初狩野派や琳派にも画技を学びますが飽き足らず、寺院や所蔵家を回って、宋や元の絵を手本とします。
父親が亡くなりますと「桝源(ますげん)」4代目伊藤源佐衛門を襲名、店を継ぎますが、大好きな絵を諦めることができず、遂には40歳で家業を全て弟に譲り、画業に専念没頭します。また、相国寺の若き僧侶大典(だいてん)(けん)(じょう)(後に相国寺住持、今でいう管長に就任)との友好で、相国寺と深い縁を持つことになります。
鶏や昆虫、野菜、魚介類など画材の対象は多岐に渡り、入念な写生をベースに独自の写生を試みています。「若冲」といえば「鶏」を連想しますが、この鶏の写生を本格的にしようとした時、若冲は自宅に鶏を数羽放し飼いにし、まる一年絵筆を取らずに、来る日も来る日も、じっと鶏の動きを見つめていたというエピソードが残っています。代表作には鹿苑寺大書院障壁画(重文:鹿苑寺・承天閣美術館蔵)釈迦三尊像(相国寺)果蔬(かそ)涅槃(ねはん)図(重文:京都国立博物館蔵)などがあります。
また、(せき)峰寺(ほうじ)境内の奥に展開される仏の聖域、石で造られた仏・菩薩像・数多くの羅漢像(通称「五百羅漢」)は、晩年の若冲が下絵を描き、石工達が彫りあげたものです。
後に奇想派の一人とされる若冲ですが、同時代の「曽我蕭(そがのしょう)(はく)(1730-1781)」や「長澤蘆(ながさわ ろ)(せつ)(1754-1799)」 も若冲と同じように個性豊かな画風が見られることから、近年、奇想派と呼ばれるようになりました。

6.重要無形文化財 祭礼、仏事、民間信仰編

祭礼

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仏事

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民間信仰

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